T-moAのブログ

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バスケを辞めた理由

 29歳の秋、私はバスケットを辞めた。

 

私は幼い頃から数十年、バスケに明け暮れていた。

当時小学4年生だった私は、友人に誘われたのを機に体育館へ向かったのがバスケとの最初の出会いだ。バスケなんてものは体育館の4隅にリングが有る、程度の認識しかなかった私にはレイアップもドリブルも良く分からなかった。

 

先輩たちの初めて見たバスケの動き、シュートフォーム。とてもかっこ良く感じた光景を今でも鮮明に覚えている。初めて打ったレイアップ。楽しくて嬉しくて、何度も何度も繰り返した。

 

そんな私がバスケにのめり込むのに時間はかからなかった。その想いあってか、中学、高校、大学、社会人になってからと、他の協議には目もくれずバスケばかりを続けてきた。

 

中学の頃は強い先輩達に恵まれ、県内は無敗でずっと1位の座におり、その甲斐あって私も県の選抜に選ばれた(Bチームではあるが)

翌年、自分の代でも県で1位になることが出来き順風満帆な中学生時代だった。

 

高校はスポーツ推薦を頂き進学し、自分の代では県内3位の位置まで登ることが出来た。県代表で出た地方大会、残り30秒で私の3Pシュートが2本連続で決まり、最後の1本が逆転のブザービートだった。あの時は自分は何てことをしてしまったのか!と、震えが止まらず、チームメートに笑われたもいい思い出だ。

 

大学進学時、私は一度バスケを辞めようと思っていた。私の進学先は地元の工業大学で、バスケ部はあったがとても弱かったのだ。もうあの熱量を味わえないのかと思うと虚しくなった。そんな時、地元の社会人チームの方が声をかけてくれた。パワーもスキルもさぼり方も今までに経験の無いもので、私は失いかけていた熱量を再び取り戻し、県2位の位置まで登った。

 

そして社会人となり上京した私は、もうホントにバスケは出来なくなるんだと感じていた、、、、が、バスケは私を放っておいてはくれなかった。転勤先で自己紹介でバスケ経験有の話を出すと他部署の方が飛んできて「一緒にやろう!」と暑苦しい感じで誘われ、気が付いたらバッシュを履き、一緒に試合をしていた。

学生の頃の様な熱量は無かったがこれはこれで楽しかった。

 

そんな活動を続けていたら、練習に参加していた別の方から「クラブチームで一緒にやらないか?」と誘われた。私の中でくすぶっていた気持ちが大きくなり、また熱量を取り戻せるかもしれないという気持ちになった。

 

 

これが私がバスケを辞める小さな切っ掛けとなるとは、この頃は思いもしなかった。

 

クラブチーム活動を行っているだけあって、そこそこ上手な人が多かった。

次第に地元リーグで勝ち上がり、5部から4部へ、3部へ上がったところでチームは勝てなくなっていた。その頃からかチーム内でのもめ事が増えてきた。点を量産する子が、「俺がいなきゃチームは勝てない」と天狗になりだしたのを皮切りに、不満を抱える者、そもそもそこまでの熱量の無い者。はっきりと出始めた。また、結婚して練習に来れなくなるメンバーが増え、次第に練習も3人だったりする日も増えていった。

 

その頃から、私も仕事が忙しくなりバスケット処ではない日々が長く続いてしまった。

そしてある練習の日、体が重く、膝の靭帯がミシッ!となり動けなくなった。

怪我なんてものは今までに何度も経験してきたが、今回は違った。怪我自体の症状は対した事は無かったが

 

気持が冷めている自分に気が付いたのだ。

バスケが出来なくなる。ではなく、日常で不具合が出る結婚後、子供が生まれたら、、、、

そんな心配が先に脳裏に浮かんでしまったのだ。

そしてつまらなくなっていた。

新しく来た若い子についていくのもしんどくなり、シュートの成功率も下がる一方

どんどん下手になっていく、動けなくなる自分に愕然としていた。

 

そして自分からバスケ自体への熱量が下がっていることに気が付いた。

 

丁度その年、私はまた転勤がありその地を離れた。

新しい土地でもバスケに誘われたが、私は直ぐに断っていた。

 

そして私は、バスケットを辞めた

 

体は鍛えればまだ競技自体は出来る。今でもNBAは毎回チェックするし、今年のプレイオフも熱くなって楽しんでいる。バスケは今でも好きだし、たまにシュートを打ちたい衝動に駆られる時もある。

 

私の中でバスケは愛すべきものだが、最優先事項では無くなった。自分に子供が出来て、バスケをしたいと言われたらどう反応すればいいだろうか。そんな気持ちを自問自答するようになった。

 

バスケとの関わり、引退の言葉は自分には無いと思っていたが、、、

人生、何があるかわからないものだ